10年以上前にじっちゃんが亡くなってから、
じっちゃんの弟である大叔父と暮らしていたが、
寂しがって息子や娘(うちの母さんや叔父叔母)に
会いに来るようにといつも懇願していた。
それからはずっと母さんは毎晩電話をかけ、
週末には母さんと妹とわたしの3人で
ばっちゃんちに出かけ、介護手伝いと会食をした。
ばっちゃんが介護施設に入ってからは、
母さんは自宅介護時代の介護疲れが原因で
あまり行かなくなってしまったが、
わたしは近くを通りかかったらなるべく立ち寄って
お話をしたりしてきた。
自宅介護のときよりもかなり寂しさが増していたようで、
会いに行くと涙を流してしまう場面もあり、
この介護施設には問題があるんじゃと思えた。
実際その介護施設はいろいろと職員に問題があって、
心ない介護が繰り返された末、本人の体調がかなり悪化したため、
次男叔父がすぐ手が届く病院に移動することになった。
そこがうちから遠い地だったため、
わたしも気軽には行けなくなってしまった。
そして、最期を看取ることもできず、
ばっちゃんはこの世を去ってしまった。
それが気がかりで、謝罪の気持ちとか、
ほかにも色々と綴った手紙を書いて棺に入れることにした。
今回の絵は、その手紙に入れた挿絵である。
「ばっちゃんへ捧ぐ ~プロローグ~」
プロローグにはわたしとクリフを描いた。
クリフは赤ちゃんのときに
ちょこちょこばっちゃんちに連れてったんだが、
よく吠えるし、家の中暴走して走りまくるので
じっちゃんにかなり嫌がられていた。
かといって庭に置いておけば地面に穴を掘り始め、
ばっちゃんが植えたばかりの花の種を台無しにしてしまう事件も起きた。
そのためクリフが大きくなってからは
家でお留守番させるようになってしまった。
それでもばっちゃんはクリフを可愛がってくれたようで、
たまに「クリフちゃん元気?」と聞いてきたものだ。
「ばっちゃんへ捧ぐ ~ばっちゃんとみかん~」
みかんが大好きだったばっちゃんは
箱で買って1週間くらいで平らげてしまう。
わたしもみかん好きなので貰いに行くと、
「いいとって」といって食べさせてくれた。
↑は故郷である秦野の方言らしい。
ちなみにクリフも秦野生まれなので
なにげに同郷なのであった。
「ばっちゃんへ捧ぐ ~病院~」
ばっちゃんの最後の誕生日、
移転先の介護施設に、妹と小旅行的な感じで行ってきた。
以前の介護施設とちがって雰囲気のよい施設で
ボケかけていたばっちゃんもかなり意識がハッキリしてたし、
顔色もよくなっていたようだ。
数ヶ月後にばっちゃんの体調が急変し、
これがが最期の顔合わせになってしまったな・・。
「ばっちゃんへ捧ぐ ~ズボンのおなら~」
ばっちゃんはおならネタに弱い。
だれかがちょっとでもこくと、
もうツボに入ってしまって小一時間は笑っている。
わたしの知らない昔の噺家が
「かわいそうだよズボンのおなら右に左に生き別れ」
と言ったそうだが、ばっちゃんはそのネタが大好きで、
毎回これを連呼しては母さんに呆れられていた。
ばっちゃんの寝室にはわたしがかつて作った
絵や作品がちょこっちょこ飾ってあったのだが、
ばっちゃんはそれが結構お気に入りだったらしく、
自宅介護時代はずっとそれを眺めていたそうだ。
なので、棺にはその作品も全部入れていいか?と
親戚一同から言われたのでわたしは了承した。
図工の作品から趣味で描いたイラスト含め、10点ほどあった。
いまは会えないが、彼の国でそれを見ながら、
わたしが行くそのときまでクリフと一緒に待っていてほしい。